■町 章■
4つのひらがなの「と」と中心の「の」でデザインされており、各地域の調和を保ちながら、町が発展していってほしいとの願いが込められています。外側に浮き出る木の葉4枚と基本色の濃い緑は、豊能町の美しい自然環境を表しています。(昭和52年4月20日 制定)
■位置■
本町は大阪府の北部に位置し、大阪市内からは、およそ30kmの位置にあります。面積は34.37平方キロメートルで北西に能勢町、北に亀岡市西別院、東は茨木市、南には箕面市止々呂美そして西には川西市黒川、一庫ダムにそれぞれ隣接しています。また標高600m級の天台山、光明山、戸知山等、豊能町の名峰が聳えています。大きくは東部地区・西部地区に便宜上分けられています。 東部地区の中央には猪名川の支川余野川によって侵食された小盆地が広がっています。耕地面積は乏しく、町土の10%、住居は10%程度で、のこりの約80%が山林原野によって構成されています。
■歴史■
現在の豊能町域で人々が生活をはじめたのは、一万年以上も前にさかのぼります。川尻地区から旧石器時代の遺構が見つかっています。
伝説によると、十二世紀の初め貝川三位長乗という人が一族郎党36人を率いて旧東能勢村の切畑・木代に移り住み、ここを拠点に開拓したのが始まりといわれています。中世には木代荘がありました。また十四、十五世紀頃には、木代荘に接して余野荘、川尻荘もあったようです。近代には川尻、余野、木代、切畑、野間口の各村になり、主として幕府領や旗本知行地として続き、幕末には幕府領は高槻藩預かり地(永井日向守)となり、明治を迎えています。
また旧吉川村は、中世は源満仲を祖とする多田源氏の支配地であったり、能勢氏の知行であったり目まぐるしく入れ替わり、政治的激動期を経て明治期を迎えています。
明治22年(1889)町村制の施行で、余野、野間口、川尻、木代、切畑の五カ村が合併して東能勢村となり、吉川は吉川村となりました。
昭和28年(1953)町村合併促進法の制定によって、東能勢村は昭和30年に茨木市高山を編入し、翌昭和31年に吉川村と東能勢村が合体合併して新しい東能勢村となりました。ついで昭和33年に京都府亀岡市西別院町寺田・牧を編入しました。
その後、村は大規模な宅地開発で人口が増加し、昭和52年(1977)に町制を施行し、豊能町となりました。町制施行時8,480人だった人口は、平成22年(2010)6月末には約23,358人となりましたが、令和3年(2021)7月現在、18,891人まで減少しています。(町面積34.37km2)
■町名「豊能町」の誕生■
町制を施行するにともない広く新町名の募集をしたところ、応募者が362名あり、新町の候補名は91種類に達しました。その中から「阪北町」と「豊能町」の二つに絞られ、町の将来の発展等を考慮すれば最も適切であると「豊能町」が選ばれました。こうして昭和52年4月1日より、永らく親しまれてきた東能勢村が新生「豊能町」として発足することになりました。
■豊能町歌■
作詞 谷口秋之助 作曲 景山伸夫
1.永い歴史に 風土のかおり みどり豊かな北摂に 由緒の郷を風習を
守り伝えてこの日まで わが町豊能 ああ豊能
2.熱い人情に 自然のめぐみ 幸があふれる北摂に 平和な郷を生業を
展き受け継ぎ いまの日に わが町豊能 ああ豊能
3.青い大空 新たな息吹 たぎる文化の北摂に 理想の郷を故郷を
築き育てん永久に わが町豊能 ああ豊能
豊能町の川と山
豊能町の川
○余野川の源流は、鴻応山南斜面から発する牧川で、右岸側で妙見山北東斜面から西流してくる野間川を合わせ、ついで切畑川と木代川を左岸側から合流しています。
○切畑川は、鴻応山南東斜面から流出する寺田川と湯谷ケ岳西斜面から流下する石田川を合した川です。
○木代川は戸知山北東斜面から流れる多くの谷筋の水を集め、さらに湯谷ケ岳斜面から流出する大円川を合わせています。
○西部地区の平井川は高代寺東斜面から吉川城跡稜線斜面より南下流して、吉川下之町で初谷川と合流しています。また初谷川は妙見山南西斜面、光明山西斜面等からなる多くの谷筋の水を集め初谷川へ合流しています。
○高山地区内に流れる高山川は戸知山の南斜面、石堂ケ丘西斜面から流下し高山川へ合流しています。
光明寺付近が谷中分水界で、南へは箕面川へと流れ、北は余野川へ至ります。(資料館資料より)
豊能町の山
妙見山(660.1m)
平成2年(1990)「花と緑の博覧会」を記念して「大阪みどり百選」に選ばれ、第29番目の指定地となった。山頂には府下では珍しいブナが自生し、樹齢約700-800年とも言われている。
鴻応山(678.9m)
豊能町の最高峰、江戸時代、大阪堂島の米相場の状況を知らせるノロシ(狼煙)をあげた場所とも伝えられている。 嘉祥3年(850)、義顕上人が山麓を訪ねた時、はるか頂上に紫雲がたなびき、鴻の鳥二羽が舞い降り、舞い上がりしているので、その山頂に来てみれば二寸三分の仏様がおられた。上人は二尺三寸の薬師尊像を彫刻し、その体内に仏さまを納めた。山名を「鴻山」と、その後「鴻応山」と呼ばれるようになった。 日本全国の山の中でも、「鴻」の文字を冠する山名は極めて珍しく、能勢にある歌垣山からこの山を見ると、山容は秀麗で、赤松茂氏は、「豊能富士」と名付けた。 この山の麓の豊能町寺田地区にある青峰寺は創建が嘉祥3年(西暦850年)の古刹であるが、このお寺の山号は「鴻応山」であり、お山の名称と同じ文字が使われており一説には、この山号が山の名前となったとされている。
戸知山(665m)
天台山、光明山、妙見山と連なる一帯は、その昔は真言宗修行の場であった。その入口(戸口)に当たる位置にあることから山名がついたとも云われている。山頂には右近の夫婦松(愛称)がある。
明ケ田尾山(619.5m)
高山の西方寺前を通り、ヘライの辻を右に折れると登山口。五月山連山の北端に位置している。
石堂ケ丘(680.1m)
高山と茨木市の境に位置する。慶長19年(1614)徳川家康はキリシタン禁教令を発し、高山右近とその一族を国外追放した。幕府の弾圧が強く村人はキリスト教の祭具を石堂ケ丘に埋め、その上に「みつばうつぎ」の木を植えたという伝説が残っている。元旦の朝に「金の鶏が一声鳴く」との言伝えがある。
天台山(639.7m)
天台の名は最澄の開いた天台宗、中国仏教三大霊場の一つ「天台山」と同じ。
光明山(639m)
仏・菩薩が心身から放つ光りの意、僧の修行の場とした山でもある。
湯谷ケ岳(622.4m)
山頂からは摂津・丹波・山城・河内の国々が見える。
田の廣(576.2m)
12世紀初期、藤原長乗(通称貝川三位長乗)が一族郎党36名を引き連れてこの地に在住し、大円を拠点に開発したのが、木代・切畑の始まりとされる。
高代寺山(488.7m)
妙見山南西に位置する。吉川城跡稜線を西へ。高代寺本堂より少し行くと高代寺。
青貝山(391.2m)
東ときわ台の東、その麓にはかつて希少なトンボの生息地として人々が訪れるトンボ池がある。
*参考資料
豊能町町史 ・豊能のくらし(冊子) ・余野川流域風土記 ・豊能町立郷土資料館案内資料・豊能(町勢要覧1993) ・能勢町史 ・過去観光養成講座テキスト集、ガイド案内資料 国土地理院地図