北の谷多尊石仏
造立は桃山時代天正八年(1580) 。四段に区画された最上段には定印阿弥陀像、左に観音菩薩、右に地蔵菩薩を配す。脇侍の右隣に二体、第二段から再下段に一七体の円頭合掌像が並んでいるがこれは地蔵を表し、造立願主の逆修仏と観られる。左右の五輪塔は講中の化仏者三人を表すとみられる。
北の谷地蔵不動明王磨崖仏
3m大の磨崖面に50cmほどの舟形を二つ並べ、左に不動明王、右に地蔵菩薩の立像が彫り込まれている。紀年銘は天正17年(1548)
北の谷不動明王板碑
紀銘年天正16年(1588)。不動明王は治病、安産、厄除け、怨敵降伏を祈願するとされる。
北の谷法輪寺宝筐印塔
「宝筐印塔」は三蔵法師が印度から持ち帰って訳した。
一切如来心全身舎利宝筐印陀羅尼経から出た名称で、この経典を写経して塔中に置き礼拝供養すれば、生きている間は災害から免れ、死後は必ず極楽に生まれ変わるとされることに由来する。後年、本来の目的以外で造立されたものが多い。塔の様式などから法輪寺の塔は、南北朝の頃の造立と推定される。
北の谷法輪姫の塔
グミノ尾という所に散在していたものを、集め組立てたもの。宝筐印塔の基礎と五輪塔の水輪地輪は立派な造りである。中央の塔の基礎に文和4年(1355)の紀年銘のあるものを法輪姫の塔と呼ぶ。法輪姫とは誰か不明。
中の谷多尊石仏
上部に阿弥陀三尊、その下に16体の逆修仏が彫られている。碑文に天正元年(1573)と記されている。逆修とは、生前に死後阿弥陀如来の功徳により極楽往生しようとするもので鎌倉時代に始まり、乱世の永禄・天正年間に最高潮に達した。
中の谷光明真言板碑
寛文12年2月念仏講中により造立。大日如来報身真言アビラウーケンを十字に刻み真言宗の最重要の光明真言24文字をまるく囲んでいる。
真言とは梵語を原音そのままに発音したもの。(密教)
打越阿弥陀三尊
向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩の脇侍を従えた阿弥陀如来像。平安時代南朝年号 正平7年(1352)当時この地方は足利氏勢力下にあった。近くに多宝塔、万霊塔もある。
打越宝塔
宝塔は本来大日如来を本尊としたもので、基礎・塔身・笠・相輪よりなり、塔身に金剛界四仏を刻む。四角の裳階(モコシ)を加えたものを多宝塔という。石造物としては全国的にあまり残っておらず、豊能郡では打越と能勢町清普寺の能勢総家だけのようである。
打越万霊塔
この世の生命あるものすべての霊をこの塔に宿らせ、塔を供養することによって万霊を供養するもので、寺の境内、墓地、分れ道など回向を受けやすい場所に建てられている。碑文は三界万霊、三界万霊等、三界万霊十方至聖などまちまちだが、打越のものは三界萬霊平等利益となっている。
殿方庚申塔
庚申信仰(中国道教の三尸説 さんしせつ)による。
享保7年(1722)造立。中央に青面金剛、上部に地蔵菩薩、下部に施主6名が記されている。人々が庚申講を結成し60日に一度巡って来る庚申の日に健康長寿を願って「庚申待ち」という行事を行っていた。
向井山宝篋印塔
地上高さ305.5cm、花崗岩製。豊能町にある江戸時代の宝篋印塔の最も古いもので、基礎正面に胎蔵界大日如来の梵字を刻み、他の3面にも銘文がある。それによれば享保七年(1722)当地の塩山左衛門満雅が現世安穏、後生菩提を祈って建立したものである。塔身の四方には金剛界四仏の梵字がきざんであり、典型的な江戸時代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)である。
向井山地蔵石仏
自然石の台上に西面して立つ石に舟形を彫り込み、蓮座上に地蔵石仏の厚肉彫りがなされている。右手に柄の短い錫杖を、左手に宝珠を捧げ、お顔は少し損傷しているが温和のうちに厳しさがある。この地蔵尊は法性寺・地蔵尊(1314)および下所・地蔵尊に続く系統の室町時代前期のものと考えられる。
向井山池田街道道標
村人が京・丹波に行きかう旅人の安全を祈願して正徳4年(1714)に建立したものである。
正面に胎蔵界大日如来を表す梵字「ア」、「右ハかめやま 左はさい志よ ミち」、右側面に「正徳四甲午六月日施殿方」とあるが、「かめやま」は現在の亀岡のことで、「さい志よ」は在所を指し、「殿方」は川尻村内の集落名である。なお、旧池田街道に残る道標は江戸時代末期のものが多いが、この道標は比較的古い時期のものである。
向井山相撲塚(小車利助)
相撲力士の碑で、当地では大阪藤嶋内の絹川親方に属する者が多かった。この碑は門弟たちが建立したものである。
法輪寺
光明山遍照院法輪寺・真言宗のお寺。開基は秘仏「出世大黒天」彫った弘法大師説もあるが、箕面・勝尾寺開基した開成皇子が勝尾寺へ移る前に草庵を結んだのが始まりではないかと思われる。本尊は妙観察智阿弥陀如来で、薬師如来、弘法大師像、牛頭天王、八大龍王などの仏像が祀られている。