余野・木代地区


余野十三仏

 地名由来で十三仏と呼び習わされているが、「十三仏塔」ではなく「逆修塔」である。所在地は遊仙寺の前身湧泉寺跡にある。碑の表裏とも上部に三尊仏下部に17体が2段に彫られている。表面主尊は地蔵菩薩と観られるが、裏面は定かではない。逆修が造立目的であることから見て、表面が地蔵菩薩、裏面が阿弥陀如来とするのが妥当。元来は阿弥陀如来を正面として配置していたと考えられる。碑文には永禄7年(1564)彼岸中日と記されている。豊能町最古の多尊石仏。


相撲塚(錦山碑)余野

 関取の碑で、当地の贔屓の大阪藤嶋取締りの絹川部屋の門弟たちが建立したものである。


遊仙寺の寄せ墓 余野

 昭和30年頃、余野地区内に散在していた無縁の石塔石仏を供養のために境内に集め、約200基を数段の四角錐状に並べたもの。中でも4期ある宝筐印塔には文和4年(1355)の銘があり、他の1基も南北朝時代の様式で基礎部に「木道恵南上人」と刻まれている。


天武天皇宮跡 余野

 遊仙寺の墓地奥に続く森の奥に残された祠。ここに宮があったとされる。祭神は天武天皇で、創立年代は不明。柏尾宮とか大武(ダイブ)天王宮とも呼んでいたという。明治40年に走落神社へ合併された。「大婦天皇御宝前、正徳元年九月吉日」と刻された石灯籠が走落神社の境内へ移されている。伝説によると、社殿の傍に黄金の鶏が埋めてあり、毎年元旦の早朝に微かに鳴き声が聞こえるという。


ユスタ・マリアの碑 余野

 高山右近夫人は1561年摂津余野城主黒田公の娘として生まれ、3歳で洗礼を受けユスタと名づけられた。1574年高槻城主であった高山右近と結婚。


走落神社石灯籠 木代

 

 この燈篭は、明治40年(1907)の神社合併のとき、余野にあった天武天皇宮から移されたものである。銘文は、「大婦天皇御宝前」「正徳元年(1711)九月吉日」とある。天武天皇は、柏尾宮、天武天皇宮とも呼ばれていたので、大武を大婦の字にあてて表したと思われる。「延喜式」神名帳の島下郡17社の内に記される式内社で、もとは切畑に鎮座したと伝えられる。現在の鎮座地は、もと相殿神であった天照大神を分祀して祀った小玉神社のあったところである。


相撲塚(大江山作平) 木代

 いろは門弟天保三年(1832)九月の刻がある。大坂藤嶋一門の絹川部屋に属した大江山の門弟が建てたものである。能勢地方の相撲は明和年間の猪名川政右衛門を祖とし、能勢町西部は龍田川部屋、能勢町東部と豊能町は絹川部屋の配下だった。各所に師匠を供養した石碑が多い。


貝川三位塚磨崖仏 木代

 [サンミさん」と呼ばれており、一枚岩に地蔵菩薩が彫られている。室町時代後期の造立。岩面中央部の台形の掘り込みの中に地蔵立像を薄肉彫り。当地開拓の租・貝川三位長乗の徳を後世の人が顕彰したものとえられる。


庄武家地蔵石碑 木代

摩滅が激しく、銘があるかどう分らない。中央に地蔵、左下に小さな地蔵が彫られている。下にも彫り物があるようだが、よく分らない。旧街道脇にあったようである。


福田・頂応寺跡石風呂(大阪府重要文化財) 木代

非公開

 中央部分が大きく割れている。豊能まちには石風呂が3基あり、切畑法性寺にあるものが完全で、朝川寺にあったものは泉大津の個人所有となっている。何に使ったかの定説はないが、風呂用ではなく潔斎か薬湯用だったと考えられる。


たぬきやぶ 多尊磨崖仏 木代

 豊能町にある7基の逆修石造物のひとつ。天正二年(1574)十一月廿八日の銘がある。それぞれの像の右肩に法名が刻まれているようで、右端のものは妙海と判読されている。16人の逆修講中が生前に死後の極楽往生を願って供養した証しである。


走落神社 木代

 明治40年に、東能勢村の6村社と3無格社が合併して一村一産土(ウブスナ)神社の走落神社となった。中心となったのは木代の小玉(オタマ)神社で、大永3年(1523)に大円の藤森神社から天照大神を移して創立されたものである。延喜式神名帳に嶋下郡17座のなかに走落神社が記載されていたので、合併後は式内社の走落神社と称している。


遊仙寺 余野

 寛永十三年(1636)に、現在の余野十三仏のある辺りに建立された真言宗の湧泉寺が、浄土宗に改宗し遊仙寺と改め当駅地に移転したという。境内の寄せ墓は、昭和三十年に余野地区内の約200基の無縁の石塔、石碑、 宝筐印塔、五輪塔などを積み上げて定期的に回向しているとのことである。 宝筐印塔残部に慶安六年(1373)、文和四年(1355)の銘のあるものがある。


朝川寺 木代

 向陽山朝川寺の前身は大円にあった宝樹山普明院大円寺で、聖徳太子が推古天皇24年

(616)に建立したという。享徳2年(1453)に現在地に移転し寺号を朝川寺に改称した。元禄時代に大改修が行われたが、後に焼失し薬医門と鐘楼だけが現存する。明治3年に輪住制度が廃止されるまで、曹洞宗総本山総持寺の輪番住職を勤めたという。本尊の華厳釈迦牟尼仏は宝冠を戴く。