西野 多尊石仏
石英閃緑岩に頭部山形の上部に阿弥陀三尊、その下部に15体の坐像が彫られている。弥陀如来は来迎印のようで、頭の周りには放射光が掘られている。下部4段の坐像は同型同大の円頂合掌像で多分供養者と考えられる。阿弥陀三尊の右肩に「為逆修」左肩に「天正三乙亥年八月三日」と刻まれている。本町に所在する多尊石仏7基のうちの一つ。
法性寺地蔵石仏
大阪府指定文化財。石英閃緑岩の表に大きく蓮華座を刻み、上に舟形を彫り地蔵立像を厚肉彫りしている。右手に短い錫杖、左手に宝珠を捧げ、衣紋は左右相称だが像容はよく整い写実的であり、像全体から受ける感じはゆったりと悠揚としたものである。蓮弁の形も丸く大きくふくらみ、典型的な鎌倉時代後期のもので、「カゲ引き地蔵」の伝説がある。正和三年甲寅卯月(1314)建立。
法性寺の石風呂
法性寺の境内、釣鐘堂の横に旧走湯天王社のものと伝えられる石の槽が置かれている。鎌倉時代のものと推定されている。社寺での「みそぎ」や僧侶の斎戒に使用したとする説、庶民の厄病除災のための湯あみ説などがある。石風呂の周辺に窪みが多く見られる、これは薬草をすり潰したものであろう。大阪府の有形文化財に指定されている。
中の西・多尊石仏
もと溝川の橋になっていたもので、石英閃緑岩で作られた板碑で3つに割れている。上部に阿弥陀三尊、向かって右にある観音菩薩は大きく欠損し、中尊の阿弥陀如来も首のところで大きく欠けている。阿弥陀如来の頭部には放射光がある。三尊の下に5列4段、供養者たちと思われる20体の円頂・合掌の立像が蓮華座上にある。阿弥陀如来と勢至菩薩の間に刻銘、勢至菩薩の左に「道見」とある。「天正乙亥三年九月吉日」(1575)建立。
貝川三位の墓
貝川三位は12世紀初めに木代に来住、大円(おおまる)を拠点に木代の荘(木代、切畑、余野)開発の祖といわれている。一石造笠塔婆(いっせきずくりかさとうば)で10㎡の塚の上に立ち、宝珠、笠の流れ、軒反(のきぞ)りなどは鎌倉時代の形である。
下所多尊石仏
天正二年(1574)の作。自然中央石に彫られている。
中央の阿弥陀仏が光輪を背にしている。阿弥陀仏像の下に「為逆修檀」の碑文が見られる。阿弥陀を主仏に左右2体づつの座像、併せて向かって左に五輪塔、中段に4体、最下段に14体の座像が彫られている。
大円下所阿弥陀磨崖仏
巨大な岩(石英閃緑岩)の露頭の下部に南面して彫られている。露頭は高さ1.9m、巾2.3mの大きさでその下方に、座高25cmの定印の阿弥陀如来像が半肉彫りに浮き出されており、美しい阿弥陀如来である。無銘だが、南北朝のものと見られる。
大円下所地蔵石仏
法性寺の地蔵菩薩とよく似たお姿。細長い自然石の表に舟形を彫りこみ、中の蓮華座上に地蔵立像が半肉彫りされている。像はすらりとした長身、引き締まった感じでお顔は童顔mスマートな衣紋と若々しい感じの好感の持てる地蔵尊像である。蓮弁の形から南北朝時代の作と推定されている。
大円釈迦堂阿弥陀三尊笠塔婆
旧岩奥山竜泉寺跡と伝えられる釈迦本堂の一隅にある豊能町最古の石仏。鎌倉時代後期、乾元二年(1303)の作。中尊は阿弥陀如来の坐像で、高さは29cm、印相は阿弥陀の定印と見られる。その下にある左右の脇侍・観音菩薩は蓮台を持ち、勢至菩薩は合掌している。願主の名は風化していて判読できないが、疫病・禍の悲運にあい、阿弥陀の慈悲にすがりたいと願主の回向、冥福を祈って造立したものである。
大円釈迦堂「宝筐印塔」
室町中期の作風を伝えるもので、二重の基壇の上に建ち、基壇上部は繰形座で、基礎は上端が復弁の反花座、側面に輪郭を巻き内に格狭間が入れてある。塔身は各面とも輪郭を巻き、中に月輪を浮き出して、内部に金剛界四仏の梵字を薬研彫りしてある。笠は軒下2段、上6段の段形、隅飾りは二弧輪郭付きである。相輪も完全に残り、下の請花は複弁8葉、上の請花は単弁8葉である。
大円小松・阿弥陀三尊
切畑大円小松の観音堂前の府道をへだてた崖の上にある。高さ75cm、横幅3mの岩面に阿弥陀三尊の磨崖仏が彫られている。中央の阿弥陀如来は、舟型の彫り込みに半肉彫り27cmの坐像である。左右の観音、勢至菩薩は内側を向いた姿の坐像となっており、近所の人が「小松の横向き地蔵」と呼んでいる。三尊の姿は、肉付きが豊かで、丸味ある彫りの童顔の面相で実にかわいい。南北朝期の作であろう。
相撲塚(白鳥碑)
白鳥碑は相撲の碑で切畑小林文男宅の敷地内にある。小林籐美氏の父親が碑を建立(明治31年5月)。「白鳥しらとり碑ひ」は道善と言う力士の墓で、四股名が白鳥と言う。「為道善供養之」「小林藤右ヱ門書」の銘がある。
豊嶋安次郎の塚
切畑法性寺の境内に建立されている、大阪藤嶋一門の絹川親方に属する相撲力士の塚。明治廿六年八月廿五日門弟中と刻まれており、以前は道路脇にあった。能勢地方には池田生まれの猪名川の流れを引く力士の石碑が多く、妙見山をはじめ各所で草相撲が奉納されていた。この碑は門弟が建立したものである。
法性寺
能勢頼次の能勢家再興時に禅宗から日蓮宗に改宗したもので、釈迦如来・多宝如来・日蓮上人を奉る。鎮守堂に改宗以前の十一面観音、妙見堂に妙見菩薩像を安置する。境内鐘楼脇に大阪府重要文化財・鎌倉期の石風呂、左手の墓地に大阪府重要文化財・鎌倉期の地蔵があり、「カゲ引き地蔵」の伝説を伝える。また、以前道路脇にあったという豊嶋安次郎の相撲石碑がある。
藤の森神社
伝説によれば、当社は寛平元年(889年)藤原氏が創立した邇邇ギ尊(ニニギ)を祀り、相殿に天照大神、少彦名命を祀り、社名を「走落神社」と称し延喜式神明帳に載る「式内社」である。戦国時代に兵火を免れるため大永年中に同社の天照大神を木代小玉神社に、少彦名命を切畑稲荷神社(後の走湯天王社)へ移したという。天正年中に社名を「藤の宮」とあらため、江戸時代には能勢氏領地となり、明治維新後に至り村社に列せられ「藤森神社」と称せられる。明治四十年に他の神社と共に走落神社に合併される。