吉川常夜灯
旧国道脇の旅館前にあったもので、家屋改築の際に吉川公民館北隅へ移された。旧国道は旧能勢街道(妙見山大坂参道)で妙見山への参詣人の通行が多かった。妙見講中が旅館に燈明の献上を依頼したものという。左のものに安政三年(1774)能勢郡講元乾清兵ヱ、右のものに嘉永六年(1853)建立尼ヶ碕として9人の名と地黄石工富蔵の刻がある。
相撲塚(小柳茂兵衛碑)
旧長尾街道を下り、最初の民家の前の坂道を降りた途中にひっそりと置かれている。この地方に多い関取の石碑のうちの一つ。吉川村と黒川村の門弟が建立した。小柳茂兵衛は藤島一門絹川部屋の力士であろう。維時明治十有六年龍舎四月吉日建之(時に明治16年4月吉日之を建つ)と紀年銘がある。往時は妙見山をはじめ、各地で草相撲が奉納されており、八朔の相撲で賑わったという妙見山の土俵跡が本滝道への降り口の右下に残っている。
東の燈篭
吉川地区は過去三回、享保、天明、嘉永の各年に大火に見舞われ、特に嘉永5年(1852)2月には住宅のみならず郷蔵、神社、寺等ことごとく焼失。このため、嘉永7年(1854)に金毘羅講の方々が防火・鎮火の神(迦具土神)を愛宕神社、秋葉神社より分霊を戴き、吉川地区秋葉山に祭祀する神社を建立し、更に上之町、下之町に日常的に祭祀するために石燈籠を建立したものと思われる。西の石燈籠は 現在吉川公民館の先の西にあり共に建立されたものと思われる。
旧能勢街道題目塔
旧花折街道(能勢街道)脇にあるもので、天王寺の妙見講中が建てたものである。題目とは経典の題目のことで、妙法蓮華経は法華経の題目のことである。日蓮は法華経のなかにこそ釈迦の教えの真髄があるとして南無妙法蓮華経(法華経の教えに従います)と唱えさせた。往時、吉川村は日蓮宗の妙見山への大坂参道通行者で賑わったという。
白高さん・白高大善神他
増見橋先、旧府道脇にある。吉川村六代目村長仲谷藤太郎の時、日露戦争出征者の武運長久を祈って当時の能勢街道脇に建てたもので、後に戦死者の慰霊塔を建てた。新滝稲荷関係の白高大善神や妙見山石灯篭を建て旧長尾街道から題目塔を移した。水が落ちたことはなく空滝である。
西の燈籠
江戸時代、3度の大火に遭遇した吉川村では防火の神様、鎮火の神様として名高い京都の愛宕神社、静岡の秋葉神社より分霊を貰い、山の中腹に吉川愛宕神社として祀った。しかし、毎日神社にお参りするのは大変なので、この地に燈籠を建て、朝な夕なに灯明を差し上げた。
高代寺参道・町石
町石は寺院の参道に1町ごとに建てられた標石で、1町は約109mである。高代寺参道の町石は12基(約1.3キロ)あり、麓の1町石は妙見口駅を出て左折れ「高代寺参道」入口にある。12町石は高代寺境内の釣鐘の横の石段下にそっと置かれている。町石は普通麓から参道を上がるごとに数字が小さくなる(山上までの距離が分かる)が、高代寺参道の町石は、どういうわけか麓から山上へ数字が大きくなっている。
また高代寺参道の町石の大半に、薬師如来を表す梵字「バイ」が刻まれている。なお第5・10・11町石は行方不明。
高代寺・六地蔵/地蔵板碑
仏教の六道輪廻の思想からくる(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)の六つの世界を表し、人は死後生前の罪によってこの六つのどれかに生まれ変わると言われ、六道それぞれを六種の地蔵が救うという説から生まれたもの。六地蔵の個々の名称、持ち物は一定していない。
一石に6体の地蔵を彫ったものは、高代寺の大墓(オオバカ)の入り口を示すもので、慶安二年(1649)に玉手喜兵衛を願主として吉川村の人たちが造立したことが明記されている。
高代寺・仲頼の五輪塔
五輪塔が五基あるが、向かって右側の塔が最も大きく完全な姿をとどめている。
同塔は花崗岩製で、各輪の四方に四門(発心門・修行門・菩提門・涅槃門)の梵字を刻んだ本格的な塔である。1353年に作られたもの。五輪塔は密教の五大思想に基づくもので、塔の構造は下から地、水、火、風、空と呼ばれる。
高代寺・秀栄の五輪塔
江戸時代に中興の祖と言われる24世法印秀栄が、寛永12年(1635年)~寛文4年(1664)まで寺務を司り高代寺の再建に努める。参道の町石、六地蔵、万霊塔などを残しており、境内墓地の一段と大きい五輪塔が秀栄の墓である。
高代寺・良寛の歌碑
良寛和尚は1758年新潟県から少し離れた出雲崎(いずもざき)という町に生まれ、円通寺で10年の修業の後、諸国を巡る旅に出る。無欲恬淡な性格で、生涯寺を持たず、難しい説法を民衆に対しては行わず、自らの質素な生活を示す事や、簡単な言葉(格言)によって一般庶民に解り易く仏法を説いた。その姿勢は一般民衆のみならず、様々な人々の共感や信頼を得ることになった。高代寺に「津の国の高野の奥の古寺に杉のしずくをききあかしつつ」という句が残されている。
閼伽井の神泉
閼伽は梵語argha。貴賓または仏前に供えるもの。特に水をいう。満仲の奥方・眩暈(げんうん)が病気になり高代寺薬師堂に七日参籠し、満願の夜、夢に薬師のお告げがあり、閼伽井神泉の水を汲み七日間焼いたところ塩水となり、この塩水で100日間の行をしたら平癒したとされる。
八幡神社
源頼仲(満仲の4代目の子孫)が冶歴年間(1065~1069)吉川在住のおりに創建した神社。元は高代寺の統括下にあったが、明治の神仏分離で独立。「応神天皇」を祀る宇佐八幡宮の末社、天照社、多賀社、弁財天、稲荷社の末社を祀っている。シイの木の北限(天然記念物)となる木立は豊能町の保護樹林第1号に指定されている。
高代寺
平安時代(810)空海が薬師如来を祀り草庵を立てたのが寺の始まり。
天徳4年(960)源氏の祖源満仲が父経基の菩提を弔うため、京都仁和寺の寛空僧正を開山として高代寺(真言宗)を建立。4代源頼仲が百年後に中興。
吉川城址
源頼仲(満仲の4代目の子孫)が築いた山城。石積み,曲輪を残す。
樹間に妙見山ケーブル地点を望む。
西方寺
満谷山みつたにざん西方寺 浄土真宗(別名一向宗)
現在の場所は、多田院の出城跡「井戸城」である。開基は釈善法、本尊は阿弥陀如来。慶長15年(1610)の大火で境内の井戸の石、全て火に焼け変色している。この手水石は宝暦六年の銘がある。大火により一部変色し四百年の面影を今に残す。
考鬮寺
浄土宗、本尊は阿弥陀仏、観音菩薩(右)・勢至菩薩(左)に祀る。延宝九年に真言宗から浄土宗へ改宗、池田市にある法園寺の末寺となり、寺名を高久寺から吉川山紫雲院考鬮寺と改める。嘉(か)永(えい)五年(1852)、火災、堂宇全焼。安政2年2月27日、20世住職・星誉上人が再建落慶する。
歳納神社(才の神さん)
一般に才の神(塞の神)さんと呼ばれている。道租神を祀ったものである。塞の神は外部から侵入する妖神悪神を塞ぐ神としてよく村の入り口や道の分岐点に祀られている。吉川村にはこれより川下に民家がなかったようで、ここが実質的に村の入り口だった。また、葬儀などの後ではこの前の小川で清めを行った。
長尾街道石碑
東ときわ台8丁目にあるもので、碑文を注意深く読むと、大坂の神力講が、吉川村へ土地使用料と永代供養料を支払ったので、妙見宮の縁日にお供えと燈明をあげて欲しいと依頼したものである。以前長尾街道にあったものという。
万霊塔・地蔵板碑
五輪塔の下の道脇にあるもので、万霊塔は元禄9年(1696)に建てられたものである(説明は後述)。地蔵板碑は、参道にあるものと同じで六導能化南無地蔵菩薩と彫り、上部に阿弥陀如来の種子キリークが彫られている。
経塚
石段途中にあるもので、金剛界大日如来の種子バンが大きく彫られ、下に経塚とある。経塚は、弥勒菩薩が56億7千万年後にこの世に現れるまでの無仏の間仏の教えを守るために経典を埋めた塚である。使い古した経典を埋めているのかも知れない。造立年代は不明。
庚申塔
石段下部に、種子ウーンと青面金剛と彫った石碑がある。青面金剛は庚申の本尊で、60日ごとに巡り来る庚申の夜を不眠で過し、人の体内に住むという三尸(サンシ)九虫が昇天して帝釈天に悪事を告げるのを防ごうとする庚申信仰が行われていた。造立年代は不明。
万霊塔
石段最下部に、三界萬霊六道回生諸大檀那一切含識仏界と彫った万霊塔がある。万霊塔は、この塔に生きとし生きるものすべての霊を宿らせ、この塔を供養することによって万霊を供養しようとするものである。碑文は、三界万霊、三界万霊等、三界万霊十方至聖などいろいろである。高代寺中興の祖24代法印秀栄が慶安4年に建てたものである。
宝篋印塔
宝篋印塔は、本来、いわゆる宝篋印陀羅尼経を納めて供養し、生前は災害を逃れ死後は極楽往生することを願った石造物である。相輪、笠、塔身、基礎より成り、笠の隅飾突起が反り返っていないほど古い。享保元年(1716)大坂の岸部屋利兵衛が一門の墓標として建てたものがよく知られているが、塔身に光明真言24種子を刻んだもの数基にも注目したい。